陵墓参考地の公開・古墳調査問題について
2004年3月24日 159国会 予算委嘱審査
吉川春子議員 陵墓参考地の公開問題について質問をいたします。 明治政府及び戦前の政府は、欽定憲法制定に伴って、万世一系の天皇を裏付ける根拠といたしまして初代の神武天皇 からすべてのお墓を見付け出して、すなわち明治から昭和十八年まで掛かって指定して、今日も管理していると認識して おります。国民共有の文化財である古代史研究のために古墳への立入り研究を認めるべきではないかというふうに思いま すが、宮内庁、いかがですか。 政府参考人(田林均君) 陵墓及び陵墓参考地でありますが、これは現に皇室において祭祀が継続して行われているところでありまして、皇室と 国民の追慕尊崇の対象となっております。静安と尊厳の保持が最も重要なことであり、したがって部外者に陵墓を発掘 させたり立ち入らせたりすることは厳に慎むべきことと考えております。 また一方、陵墓には文化遺産としての価値が認められるものもあります。学術研究上の要請にこたえるため、陵墓や 陵墓参考地の本義に支障を及ぼさない限りにおいて、保全工事に伴う調査の際の見学でありますとか出土品の公開、 あるいは調査結果の公表などに努めているところでございます。 吉川春子議員 文部省検定の高校歴史教科書、最新日本史によれば、大和朝廷の始祖は神武天皇とし、神武東征伝承はそのまま 史実と認めることはできない。また、古事記、日本書紀には神代の巻があり、天地創世から神武天皇建国に至る建国 神話がかなり整然と述べられているとしています。神話の世界に基礎を置く天皇がいるということは常識です。古事記 とはどういう本か、日本古典文学大辞典によりますと、史実をそのまま述べているとは限らないとしていますし、また、 日本書紀は、最終部分の天武紀、持統紀は朝廷の公の記録を中心に編修されたと見られ、史籍の信頼性は非常に高 いとしています。これを裏返せば、それより古い部分については必ずしも信頼性が高くないと推測されるということになる わけです。神話の世界の人物の墓を含む陵墓を守るために、国民財産、文化財の陵墓を公開しないで、また考古学者 の立入りを拒否するというその理由にはならないと思うんです。発掘を要求していないんですが、立入りまで拒否される 理由は何ですか。 政府参考人(田林均君) 天皇陵の中には、神話の時代、これは日本書紀なりあるいは古事記の記述内容の解釈の相違がいろいろあるわけで あります。けれども、そういった世界のものもあることは事実であります。 ただ、古事記、日本書紀に盛られた伝承がすべて史実であると言うことはできないにしましても、歴史的事実を核として 長く伝えられてきたものであることは疑いなく、学説上も皇室の御系譜についての伝承は信頼するに足るという意見があり ます。そういった意味で、古代からの陵墓につきましても、皇室の崇拝の対象、皇室、国民の崇拝の対象となっており、現 に祭祀が行われておりますので、そういった陵墓管理の本義に基づきまして、学術目的での発掘あるいは立入りにつきま しては、これは認められるべきではないというふうに考えております。 吉川春子議員 神話の世界にも根拠を有するということを今お認めになりましたけれども、今、宮内庁のおっしゃいます生きているお墓と いいますか、陵墓、同参考地の中で古墳は幾つあるんでしょうか。 政府参考人(田林均君) これは古墳の定義にもよりますが、現在、宮内庁で管理しております陵墓のうち古墳の数は百二十一でございます。 内容的には、陵が五十九、墓が三十二、陵墓参考地二十八、その他二でございます。 吉川春子議員 その参考地というのはどなたのお墓なんでしょうか。 政府参考人(田林均君) 陵墓参考地と申しますのは、被葬者の具体的な特定はできておりませんけれども、文献や伝承あるいは墳塋の規模や 出土品の内容から考えまして皇室関係者の墳墓の可能性があるということで、将来の陵墓の考証と治定に備え、土地を 取得して宮内庁で管理している場所でございます。 吉川春子議員 その陵墓にも是非立入りを認めるべきだということは考古学者あるいは国民の要望なんですけれども、参考地となります と、今度はどなたのお墓であるかということも全くはっきりしていないにもかかわらず、それも含めて一切の立入りも認めな い。これは、日本の古代史の中には非常に未解明の部分が多いわけですけれども、こういう研究にとって非常に大きなマイ ナスであると思います。 その点について、次長は、古代史研究についてのそのマイナスであるという面はお認めになりますか。 政府参考人(羽毛田信吾君) 先生仰せの日本の古代史の研究という視点から見てどうだということにつきましては、確かにその視点だけから見ますと 、それは陵墓あるいは陵墓参考地といえども、そういうところについてできるだけの立入りだとか、あるいは更に言えば、 発掘だとかがやられた方がそれはそういうことに解明には役立つであろうというのは、それは私もそのとおりであろうと思 います。ただ、陵墓あるいは陵墓参考地も含めて申し上げますけれども、私どもとして言えば、この陵墓なり陵墓参考地と いうものは二つのことを考えなければならないと思います。 一つは、先ほど部長も御答弁申し上げましたように、やはりこれは言わば日本の象徴たる天皇にかかわる御祖先のお墓 でございます。したがいまして、そういう意味での尊崇と静安と申しますか、そういったことを保つということがまず一つ大事 だと思います。 そうした上で、今おっしゃったような言わば古代史上の、あるいは考古学上のそういった需要というものをどう満たすかとい うことを考えていく。どこに軸足を置くかといえば、やはり私どもとしてはそういった現に生きて、現にそういうことでお祭りを申 し上げておる墓であるという点をやはり重視をして、それに支障のない範囲で今の、例えば工事が行われますときとかに立ち 会っていただいて見ていただきます等のことで一方の要請にもこたえていくというのが、今のやり方としては私は正しいのでは ないかというふうに考えております。 吉川春子議員 加えて、陵墓の中にも明らかに史実と一致しないものがあります。具体的に継体陵、ケイは継続の継、タイは体ですが、 継体陵の問題で聞きますが、九九%の歴史考古学者が今城塚古墳、高槻市にある方が本物の継体陵であると言っておら れます。宮内庁は科学的な調査も行わないまま、江戸時代に決めた現在の継体陵、太田茶臼山古墳に固執しています。 それで順次具体的に伺いますので、端的にお答えください。 第二十六代の継体天皇はいつ生まれ、また没したのでしょうか。その生没の年齢、年代だけお教えください。 政府参考人(田林均君) 二十六代の継体天皇ですが、没年は継体天皇二十五年、西暦五三一年でございます。生年については、日本書紀によれ ば、生年は四五〇年となっております。 吉川春子議員 つまり、継体天皇が亡くなられたのが六世紀前半、それでは宮内庁が今継体陵としている茨木市の太田茶臼山古墳は 何世紀に築造されていますか。 政府参考人(田林均君) 継体天皇は、継体天皇二十五年、西暦五三一年に崩御し、それから現在の継体陵に埋葬されたと考えられておりますが 、この陵の築造年代につきましては、はっきりした絶対年代というものを確定することが困難でございますが、その継体天皇 崩御の前後というふうに考えられます。 吉川春子議員 茶臼山古墳は宮内庁が外堤護岸工事に伴う事前発掘を行っておりますが、その際に円筒埴輪の破片二千点を確認しまし た。一九八六年五月二十九日の報道です。この埴輪は何世紀のものとお考えですか。 政府参考人(田林均君) 継体天皇陵から発掘されました埴輪の年代につきましては、考古学界等におきましていろいろ研究が行われていることは 承知をいたしております。考古学界におきまして、相対年代につきましてはある程度の研究がなされているわけでありますけ れども、絶対年代を特定するということは極めて困難な作業というふうに聞いております。 吉川春子議員 専門家によりますと、発掘された埴輪は横はけを入れた跡がくっきりと残っており、太田茶臼山古墳の埴輪は、横はけ技法 を持ち、かつ須恵器のように穴窯で焼いたものとされています。この埴輪は、西暦四五〇年から四六〇年の間に制作された ものに見られる特徴があります。継体天皇は今答弁いただいたように五三一年に没しておられますので、この古墳の建設は その埴輪、発掘された埴輪から推測しますと継体天皇が亡くなる七、八十年前、つまり、もう生まれたころにはこの古墳が造 られていたということになります。 一方、継体陵からほど近いところに今城塚古墳がありますが、これまでの発掘調査で、これは六世紀に築造されたものであ り、こちらの古墳が本当の継体陵であるということは、考古学者の学会で大方が認める通説です。 宮内庁は、この日本考古学会の見解をお認めにはならないんですか。 政府参考人(田林均君) 現在の継体天皇陵の治定につきましては、これは幕末におきまして治定をされたものでございます。そのとき幕府は、その 当時における一定の合理的な根拠に基づいて決定したものというふうに考えております。 その後、歴史学あるいは考古学の研究が進むにつきまして、古墳の建築年代でありますとか、あるいは埴輪の製造年代 につきましていろんな研究がなされていることは承知をいたしております。ただ、古墳の製造あるいは埴輪の年代と、この崩御 の時期等々については、いろいろな考え方が成り立つわけであります。 考古学の進歩によりましてそういった新しい学説が出ていることは承知をいたしておりますけれども、そういった意味におきま して、絶対年代等必ずしも明確ではございませんので、陵誌銘等、現在の治定を変更するに足るだけの明白な資料が出ない 限り、現在の治定を維持すべきものと考えております。 吉川春子議員 江戸時代のあれによるのではなくて、現代の学問の発展を是非宮内庁も謙虚に学んでもらいたいと思います。 それで、もう一つ伺いますけれども、安康天皇陵は中世後期の中世城郭が指定されていて、古墳ではなくて、一五〇〇年代 の城郭です。安康天皇は五世紀に亡くなっています。陵として指定された場所は十五世紀の中世城郭であり、年代も千年も 後です。城郭、出城を陵として指定しているので、重要な文化財に立入りも禁止されて、中世の研究者が研究ができなくて大 変困っておられます。 これは是非公開していただきたいと思いますが、いかがですか。 政府参考人(田林均君) 安康天皇陵につきましても幕末の治定でございますが、治定の根拠は幾つかあると思われますが、その中の一つに、 現在の陵の地形、これは大分変わっているわけでありますけれども、地面の膨れている部分が前方後円墳の残丘、残り の丘の部分ではないか、あるいは残っている池が周濠、周りの濠の名残ではないかというふうに考えられまして、したがって 、前方後円墳が大方を削平された跡というふうに考えられております。 したがいまして、現在、それから近傍にあります垂仁天皇陵との位置関係でありますとか、陵所の所在地の考察でありま すとか、そういったことを根拠に治定をされているわけでありますが、先ほど申し上げましたように、天皇陵といたしまして 皇室と国民の崇拝の対象となっております。 静安と尊厳を維持する立場からも天皇陵といたしまして管理したいというふうに思っておりますので、調査目的での立入 りというのは差し控えるべきだというふうに考えております。 吉川春子議員 宮内庁のそうした態度が、古代史のみならず中世史の研究にも非常に大きな支障になっております。 次長、お伺いいたしますけれども、私は、明治天皇下の天皇と日本国憲法の下の天皇との地位は全く変わっておりまして 、万世一系の天皇統治すの感覚で古墳を管理することがそもそも間違いなのではないかというふうに思います。 日本の歴史でなぞの多い古代国家形成期の歴史を復元するというためには、大古墳の調査が欠かせません。三世紀から 六世紀までの古墳は大型の前方後円墳、築造技術を駆使して造られた文化的モニュメントの傑作で、また日本が世界に誇 る文化財でもあるんです。これを積極的に公開していくように努力をしていただきたいと思いますが、いかがでしょうか。 政府参考人(羽毛田信吾君) 先生今お話しのございました、私どもも現在の陵墓の管理は当然現在の憲法下における天皇ということを前提に行って おります。したがいまして、象徴天皇たる現在の天皇の祖先のお墓というもの、あるいはその皇族の方のお墓というものの 重みというものをどういうふうに考えていくかということだと思いますけれども、やはり今の、現憲法下における国の、あるいは 国民の象徴としての天皇ということを考えました場合に、その祖先に対して、やはりお墓というものに対してそれなりのやはり尊厳 と尊崇ということは非常に大事なことだというふうに私どもは思っております。 そういった観点から、やはりそれをまず第一に考えていく。そうした中で、今おっしゃったような文化あるいは学問上の要請 というものに、それに損なわない範囲でこたえていくという姿勢でやっていくことにつきましては、やはりそのようになすべきで はないかなと思いますし、先ほど来のございました、治定が少し今の学問水準からいけばおかしいのではないかという御議 論もございましたけれども、これにつきましても、やはり私ども、今ただいまの状態でA説、B説があって、A説が有力だという ような形の中だけで物事を処するのにはやはり慎重でなければならないのではないか。やはり、かつて過去において、あるお 墓をその時点の知見をもって同定をし、そしてその後、そこをお墓としてやはり祭祀を行ってきたことの重みというものは考え なければならないんではないかというふうに思っております。 したがいまして、現時点においてそういうことをもし変えるとすれば、それを覆す決定的な、そこはそうではないというようなこ とも出てまいりますればもちろん格別でございますし、その間の考古学等の発展について私どもも思いをいたさないということ ではもちろんございませんけれども、やはり基本的にはそういう点についてはかなり慎重な態度で臨むべきがやはり正しいの ではなかろうかというふうに考えて、今日処しておるところでございます。 吉川春子議員 時間ですので、納得できませんが、終わります。 |